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March 06, 2007

ダスビ演奏会(3/4)

毎年恒例,ショスタコ好きの集う祭に参加した。

オーケストラ・ダスビダーニャ第14回定期演奏会
2007年3月4日(日) 東京芸術劇場
指揮:長田雅人(常任指揮者)
ヴァイオリン独奏:荒井英治(東京フィルハーモニー交響楽団ソロ・コンサート・マスター,モルゴーア・クァルテット第1ヴァイオリン奏者)
曲目:映画『ピロゴフ ~先駆者の道~』の音楽による組曲 作品76a(L.アトヴミャーン編)
   ヴァイオリン協奏曲第1番 Op.77
   映画音楽『馬あぶ』から「ノクターン」(ソリストアンコール)
   交響曲第15番 Op.141
   (すべてショスタコーヴィチ作曲)

1stVnで出演。ヴァイオリン協奏曲と交響曲15番という2曲を同時にやってしまうという非常にヘヴィなプログラム。いつものダスビと違って勢いではどうにもならないというところが,新境地を開くきっかけになっただろうか。

○ピロゴフ
今回のプログラムでもっともわかりやすい映画音楽。音楽の持つ雰囲気をよく実現できたと思う。冒頭バンダのトランペットや,ワルツでのクラデュエットもヴァイオリンの同じ主題もステキに響いていたと思う。弦セクションの雰囲気や木管の彩り,重量級の金管と「存在感はあるけど破壊的でなく(だったっけ?)」というマエストロの言が生かされた,打楽器もすばらしかった。

○ヴァイオリン協奏曲1番
ソリストの荒井英治氏はこの曲への思い入れがほとばしるさすがの演奏。特にカデンツァは鬼神。非常に近い位置で聴けたのはよかった。
オケは2,4楽章が難しく,危ない部分もあったがなんとか崩壊は免れた。しかし2楽章冒頭の木管はすごかった。狂気のごとき高速パッセージ,本番では神が降りてました。
個人的には練習で代奏したこともあり,曲に対する理解が深まっていたのが演奏に生かせたと思う。音楽にかなり近づけたのではないだろうか。レセプションで荒井氏からソロ譜にサインをもらったので,御利益でもっとよく弾けるようにならないものだろうか(笑)

○交響曲15番
最後の打楽器アンサンブル,精妙でした。最終の打音がホールの空間に溶け,雰囲気として満たされ,ステージと客席に染みこんで元の空気に戻ってから拍手。この時間は得難いものだった。終楽章は以前書いたような感覚で弾いていたと思う。果たして,どれほど音楽と一緒になれただろうか。
全体としてはやはり難しい曲,真の姿を現すところまでは到達できなかった感がある。いや,かなりいい線は行ったと思うのだが,もう一つ越えるべき壁を越えられなかったというか。もしかしたら永遠に越えられない壁なのかもしれないが,もう一度ダスビで採り上げることがあったら,もっと曲に近づけるよう力を尽くしたいと思う。

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今回のプログラムは「アマチュアの限界」といったようなことがもどかしいものでもあった。もちろん,技術的に高度なアマチュア団体もあるのだが,そういう高度な技術レベルを維持するために大変な努力をしているところと違い,ダスビのような情熱先行型の一般的なアマオケにとっては厳しいプログラムだ。ダスビの技術レベルが特に低いというわけでもないのだが,ヴァイオリン協奏曲や交響曲では,とにかく絶対的な技術レベルを要求され,実現するためにはかなりの困難が伴う箇所がかなりある。情熱とかそういうものだけではどうにもできない,力量不足を明らかにされてしまうような,そんなプログラムだった。これらの課題を糧にできるよう,今後も精進するのみだ。

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さて,いつもダスビの演奏会後は「抜け殻」といった感じなのだが,今回は「脱力」程度だ。なぜなんだろうか?と考えてみた。
原因としてはやはり15番と十分に一緒になりきれなかったということだろう。曲の理解,表現方法,演奏精度,などはそれほど足りなかったわけではないと思うが,それだけでは「演奏」したというだけに過ぎない。言葉では「演奏」としか言いようがないのだが,「演奏する」とか「表現する」とか「伝える」とかのレベルであるうちはまだまだだと思っている。音楽を音楽たらしめるためには,その音楽に語らせるためには,その音楽の生命をあるがままに呼吸させるには,より高度に音楽を感じ,一緒になる必要がある。そして初めて,「演奏する」ことなく自然に,当たり前に「音楽になる」ことができる。過去にはその状態にかなり近づくことができた時もあり,ダスビの演奏会ではかなりの高確率でそんな感覚を得ることができていた。だが,今回の15番とはそこまで行くことができなかったように思う。自分の弾く部分だけでも今までよりずっと距離はあった気がするし,自分が弾かないところに至ってはまったく不十分だったと思う。音楽の外から仲間の演奏を聴いている,という状態だ。同じステージにいたとしても,それでは不十分だろう。音楽そのものとして感じ,自然な息づきと心臓の鼓動によって,その音楽の生命であるところをその場に現出させる。それは自分が音を出す場面であっても,他の楽器が音を出す場面であっても,すべての楽器が沈黙する場面であっても必要なことだ。なぜその場面でその音なのか,沈黙なのか,そんな理屈を頭で考えているうちはまだまだだ。最初は考えて理解する過程も必要だろう。だが,最終的には必然として,その音楽が存在するための欠くべからざる理由であるものを感じて,いや,感じることもなくならなければならない。音楽の一部として,当然のこととして機能する。生物が生きるために心臓を意識して動かしてはいないのと同じように。
作曲者がこの曲を書いた年齢の半分ほどしか生きていない自分が,作曲者と比較してまったくぬるい環境に生きている自分が,その音楽とどれだけ一緒になれるのか。それでもできるだけ近づきたい,その音楽を感じたい,その音楽の生命をこの場に現したい。その欲求があるから,音楽を理解し,表現技術や演奏精度を向上させ,多数の奏者の感覚を近づけるために努力を続けるのだろう。時にその理想的状態に,考え得る最高の接近を実現できる,そこがダスビの魅力であると思う。

最後になりましたが,聴きに来ていただいたみなさま,スタッフでお手伝いいただいたみなさま,ありがとうございました。

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