今日の通勤CD
バッハ・カンタータ26,116,130,139番/リヒター/ミュンヘン・バッハ管弦楽団・合唱団(ARCHIV POCA-3030)
BCJの演奏会を聴きに行く。今回は6番以外は聴いたことのない曲だったので,出会いの喜びとでもいうところか。
バッハ・コレギウム・ジャパン第71回定期演奏会
2006年2月22日(水)19:00
東京オペラシティ コンサートホール:タケミツ メモリアル
ライプツィヒ時代1725年のカンタータ4
・バッハ おお神の子羊,けがれなき BWV656
・バッハ カンタータ42番「その同じ安息日の夕方」
・バッハ カンタータ108番「私が去り行くのは,あなた方の益となる」
・バッハ カンタータ6番「留まってください,私たちと共に」
・バッハ カンタータ103番「おまえたちは,泣き喚く」
鈴木雅明(指揮)
野々下由香里(ソプラノ)
ロビン・ブレイズ(カウンターテナー)
ジェイムズ・ギルクリスト(テノール)
ドミニク・ヴェルナー(バス)
今井奈緒子(オルガン)
ダン・ラウリン(ソプラニーノ・リコーダー)
ディミトリー・バディアロフ(ヴィオロンチェロ・ダ・スパラ)
バッハ・コレギウム・ジャパン(合唱&管弦楽)
最初はオルガンコラール。このジャンルはあまり聴かないので,ソプラノ(声楽の)が歌うのは初めて聴いた。コラール旋律がペダルに移って最終音がオルゲルプンクトとなり,上声部が技巧的な展開の後圧倒的な響きを持って曲を閉じるのはすばらしい。
カンタータ42番。私としては第1曲のシンフォニアと,第6曲のバスのアリア(Vn2本+通奏低音)が印象的。どうしても最初のイメージは器楽の躍動感とかに目がいってしまう。やはりカンタータは名曲の宝庫だ。
カンタータ108番。第4曲に合唱のフーガが入るが,中間にこのようなすばらしいフーガが置かれるのは珍しいと思う。フーガ最高。
カンタータ6番。第3曲のソプラノのコラールは,通常チェロ・ピッコロが伴奏する(今日の通勤CDの記事)。今回は,これをヴィオロンチェロ・ダ・スパラで演奏。なんと小型の5弦チェロをヴァイオリンのように肩にあてて水平に構えて弾くというもの。今までCDを聴いていて,この伴奏の音色や動きがなんとも不思議だと思っていたが,その一つの答えとしてのヴィオロンチェロ・ダ・スパラという楽器が,なるほど,と思わせるものだった。ヴィオラのような,チェロのような,どちらでもないような,そんなどことなく無理のある音色と,そのわりに機敏な音の動きはチェロ・ピッコロももちろん適役なのだろうが,この楽器のほうがより説得力があるような気がした。
カンタータ103番。冒頭合唱ではソプラニーノ・リコーダーの硬質な音色が,合唱と他の器楽の中から突き抜けてくる,とても珍しい響き。第5曲のテノールのアリアではトランペットが登場,「立ち直れ」というテキストを強調しているようだ。
今回もソリスト,合唱共にすばらしかった。テノールとバスのソリストは初めて聴いたが,少し重め(というより声の速さが遅め?)の声質に感じた。私はもう少し速めの声で明るめに聞こえる方が好みなのだが,しっかり響いていて説得力があったと思う。カウンターテナーのロビン・ブレイズは相変わらず驚異的。もちろん器楽も大満足。バッハ演奏のスペシャリストともいうべきメンバーなのだから当たり前なのだが。
やはりバッハのカンタータはいい。バッハがあるから生きていける,といつも思っているが,CDで聴くよりも生演奏で聴くのは最上の贅沢だ。次回はマタイ初稿。楽しみ楽しみ。
バッハ・無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ/ミンツ(DG 445 526-2)
最近どうも冴えない印象のミンツだが,これは調子良かった頃の録音(1983,1984年)。終始骨太の音,といった感じで,透明なのではなくて味わい凝縮,という感じ。私がイメージしている音に近い。日本酒だったら原酒だ,と今日は思った。こんなふうに弾けるといいなぁ。
それで一つ思ったこと。いつも私が弾いているとkaorina。が「キミの音はキツ過ぎて聴いていてつらい。」と言うのだが,今回それがわかった気がした。ミンツの音は時にキツいのだ。例えばシャコンヌの冒頭付近とか。今日のように少々心が弱っているときは,このような音はキツ過ぎて聴いていてつらい。いつもkaorina。はこういう印象を持っているのかと思うとなんだか悪いような気もするが,自分のイメージどおり弾くのが私らしさなのだから,そのイメージが変わらない限りは目指す音を追求して精進するとしよう。
祝・ショスタコーヴィチ生誕100年!
ダスバーと全国のショスタコファンにとって一年で最も熱い一日を今年も過ごしてきた。
オーケストラ・ダスビダーニャ第13回定期演奏会
2006年2月19日(日) 東京芸術劇場
指揮:長田雅人(常任指揮者)
ピアノ独奏:ミハイル・カンディンスキー
曲目:劇音楽「ハムレット」による組曲 Op.32a
ピアノ協奏曲第2番 Op.102
24の前奏曲とフーガ Op.87~第17番 変イ長調(ソリストアンコール)
交響曲第8番 Op.65
(すべてショスタコーヴィチ作曲)
1stVnで出演。今回は後方プルトだったので,合わせるための緊張感がかなりあった。打ち上げでかねこけんじ氏から「Vnに時差があった。」という感想もあったので,十分でなかったかと思うと少々残念。問題になるほどではなかったとはいうが,まだまだ修行が足りないということだな。やはり難しいものだ。
○ハムレット組曲
プルトのぽち氏が不安を漏らしていたうえ,個人的に合わせの回数が不足していたこともあって若干の不安を残したまま本番だったが,実際は思ったほど危険なこともなく,無事だったので一安心。
演奏は曲の雰囲気を出せたのではないかと思う。いつものことだが,出だしはちょっと浮き足立った感じがあったものの,徐々にエンジンがかかった感じ。特に後半はいい感じだったと思う。
○ピアノ協奏曲2番
ソリストのカンディンスキー氏の音楽を実現することに注力。その分ダスビとしては難しいところが多かった。結果としてかなり実現できたと思うが,いつもと違うアプローチによる不安定さが生じ,ソロとオケのかみ合いが悪い印象があったようだ。練習中から「遠慮しないで」とソリストに言われていたが,やはり本番は遠慮しすぎだったかも。でもすぐにやりすぎてソロを消してしまうようなオケだからなぁ(^^;)。
1楽章は開始から遅めのテンポ。音質もいつもの荒く硬い音は厳禁といった感じで,音量も控えめ。勢いで押すタイプのオケだから,こうなってくると心配は尽きない。途中アンサンブルがちょっと不安定なところなどもあったが,後半テンポアップしてからは少しは調子が出たか?
2楽章は今回のソリストに最もぴったりする曲想。オケも(たぶん苦手な^^;)エスプレッシーヴォを最大限意識する。非常に美しく,暖かくも寒い,ソリスト曰く「冬の色彩」が実現できたのではないか。
3楽章も1楽章と同じ傾向。いつもなら走るであろうところに神経を集中する。大爆発せずに小爆発くらいで終わる。
ソリストのアンコールはすばらしかった。特にフーガはあの高い難度をすばらしく弾いていて,引き込まれる。やはりすごい実力の人なのだなぁ,とあらためて感じた。
○交響曲8番
これは遠慮なし。やりたいようにやる。パンフレットの最後の団員アンケートにあるダスビの魅力「弾(吹)きたいように弾(吹)ける」というのはまさにこのことだ。
1楽章冒頭,低音の一撃が長大なこの楽章の戦闘開始を告げるがごとし。限りなく冷たいppと阿鼻叫喚絶叫のfffの入り交じる,超重量級のこの楽章に全神経を注入する。最初の1stVnの入りの緊張感。果てしなく続く行軍のごとき旋律。すべてが崩壊するがごとき大クレッシェンド。静寂に一人彷徨うようなコール・アングレ。最後にこの不条理に怒るでもなく,嘆くでもなく,ただ現実が存在するのみ。重く,恐ろしいこの楽章を存分に演奏しきったのではないか。
2楽章は高速テンポ。後半,ああいった場面でスネアに煽られるのはいつものことなので予想はしていたが,それ以上だったのでさすがにもつれる。kaorina。によると弦はまったく聞こえなかったらしいが・・・。
3楽章は遅めのテンポでいまいち乗り切れなかったか?テンポキープに気をつかったが,やはり途中から我慢できず走っていた。こちらのほうが本来のものなのかもしれないが。中間部のラッパソロとスネアは赤くて最高だった。
4楽章のパッサカリア。指揮の長田氏曰く「永遠に続いて欲しかった。」の言葉のように,すべてが崩壊した後の世界が現れた。緊張感に満ちた変奏を支えたベース軍団最高。集中力を途切れさせることなく演奏できたのではないだろうか。
5楽章の世界。若干の乱れはあったものの,この不思議な空気を実現できたように思う。1stVnに限って言えば,パートとしてまとまった音を作れたと思うし,テンポ変化にも十分対応できたと思う。
全曲の最後,幸福ははたして人類のためのものなのだろうか?人類と限定されるものではなく,すべてが無になったと思われたところに残っていた命,そんな意味での幸福なのではないだろうか。最後の音が消えた後の無音の時間。人間は高慢であってはならない。そんなことを感じさせるような演奏だった。
※おまけ:打ち上げ
1次会では「乾杯三唱」なるものが飛び出し,異様な盛り上がりを見せる。指名された人はなぜか一気飲み。おかしな流れに乗ってソリストのカンディンスキー氏まで一気飲み。これが日本文化と思われたのではないだろうか?心配だ。今回も燃えたり縛られたりする者は現れず,わんこ○○もなかった。かわりに萌える人は現れた(笑)。
2次会はほとんど寝ていた。もったいないが仕方ない。kaorina。は楽しんだようだ。朝までいった(4次会)人もいたようだが,我々は帰る。
最後に,聴きに来ていただいたみなさま,スタッフでお手伝いいただいたみなさま,ありがとうございました。
それから,こんな充実したステージを一緒に作ったダスバーたちに,本当にどうもありがとうと言わせてください。
ショスタコーヴィチ・交響曲2,3番,劇音楽「ハムレット」組曲/ロジェストヴェンスキー/ソヴィエト文化省響(BMG MELODIYA 74321 63462 2)
本番前にハムレットの意欲を高めようと思って聴く。(またかい^^;)
総じていい演奏だと思うが,もっとぶっ飛んだ感じにしてくれてもいいのにな,とも思う。でも気分は十分乗ってきた。さて,あとは本番でちゃんと弾くことだ。
交響曲もわりと真っ当な演奏。ロジェヴェンだったらもっといろいろやっていてもよさそうなものだが。強いてあげれば3番の後半で出てくるグリッサンドのエグさか。どちらも合唱は雰囲気バッチリ。今どきこんな演奏をするところはそうあるまい。やはり必携盤ですな。
バッハ・フーガの技法/ゲーベル/ムジカ・アンティクア・ケルン(ARCHIV 431 704-2)
弦楽四重奏,弦楽五重奏,チェンバロ独奏,チェンバロ二重奏などによる演奏。弦楽器奏者としては,やはり弦楽アンサンブルによる部分に注目する。このフーガを明確に演奏するのは容易いことではないだろうが,いずれBBQでも取り組んでみたいものだ。
最後に未完の3つの主題によるフーガ(4つの主題によるフーガの断片)も収録。BACH主題によるフーガが開始し,主題の反行が現れていよいよ展開するというところで収束して終わる。この主題によるフーガは開始早々異様なエネルギーを持って迫ってくる感じがある。完成していたらどんなにすばらしいものになっていただろう。ただ,これは本当に未完なのかどうか,という研究もあるようだから,こんなことを言うのは無駄なことだろう。
本当に苦しいときは誰も助けてくれない,と思っている。私の現状に対して,「困ったことがあったらなんでも聞くから,なんでも言って。」と言われるが,実際本音で言ったら聞きはするだろうけれど,なにもしてくれないんだろうと思う。そうなると言うだけ空しいと思うので,結局何も言わないことになる。あー,心が荒みきっているなぁ。
まあ周りは実際私がそれほど苦しい状況にあるとは思っていないだろうから,私が壊れでもしないと「がんばれ」くらいしか言わないだろう。でも「がんばれ」はもう聞き飽きた。私は以前から思っているが,がんばっている人に「がんばれ」と言うことほど残酷なことはない。現在の私にはまだがんばる余地はあるのだろうと思うが,もう精神的,体力的な余裕がほとんどない。もう疲れた。
死のうとは思わないが,現状が継続するとまあ体は壊すだろう。その前に精神が崩壊した方がなにもわからなくなって楽かもしれない。
ショスタコーヴィチ・交響曲8番/バルシャイ/WDR響(BRILLIANT 6275-5)
週末に向けて意欲を高めようと思って聴く。
曲の持つ力を感じさせてくれるなかなかいい演奏。音はロシアっぽい荒さがなくてきれいすぎかも。その分4楽章の弦のみの部分は,緩い動きの水の中に外光が入ってきて,屈折や反射が刻々と変化しているような,幻想的なイメージを感じさせる。
バッハ・マタイ受難曲/ヘレヴェッヘ/シャペル・ロワイヤル/コレギウム・ヴォカーレ(harmonia mundi FRANCE HMX 2901155.57)
こんな気分の時はマタイに手が伸びる。思えば2000年の9月23日,大雨の中,車を運転しながら聴いたのが,マタイに対するこのような思いに初めて気づいた時ではなかったか。人間の弱さをあからさまにしてしまうこの音楽から,自分の現在の苦しみの原因がまさに自分の弱さであるということを否応なく突きつけられる。それがわかっているからマタイを聴きたくなるのだろうと思う。
人の罪を背負うイエスの物語を借りて,人間の弱さが次々と示される。イスカリオテのユダやペテロや民衆たちが,弱き心の故にとってしまう行動と続いて訪れる後悔。今日はどの場面も本当に涙なしには聴けなかった。しかし,物語の序盤,第10曲のコラールが鳴り響くとき,人間の罪がその弱さの故であることを,バッハの和声がはっきりと示しているということに今日気づいた。「自分が罰を受けるべき」というテキストに込められた思いの音化は見事としかいいようがない。自分の心と正対するということの重要さを,バッハの音楽が教えてくれる。目を逸らすことなく自分の心を見つめ,自分の弱さを認める。そのことでしか人間は苦しみを浄化することはできない。これは宗教だからとかではなく,真実だと思う。こんなことを感じさせてくれる音楽はなかなかあるまい。
さて,演奏のほうではやはりリヒター盤の呪縛に囚われすぎているのか,「劇的」でないなぁと思ってしまった。例えば「十字架に架けろ!」の合唱などは,群集心理に踊らされた民衆の狂気に満ちた雰囲気を感じるリヒター盤に比べて非常に静かな雰囲気。本当に十字架に架ける気があるの?といった感じだ。しかし,スコアを素直に音にするとこうなる,ということも言えるだろう。アタックやスタッカートなどが記譜されているわけではないし。刷り込みのない素直な心で音楽を聴かなければ,ということもまた思った次第。
市原フィルハーモニー管弦楽団 第16回定期演奏会
2006年2月5日(日) ぱ・る・るホール
指揮:佐藤 迪
曲目:ロッシーニ 歌劇「セビリアの理髪師」序曲
モーツァルト 交響曲第41番「ジュピター」
ブラームス 交響曲第3番
ブラームス ハンガリー舞曲第1番(アンコール)
いつものごとく2ndVnのエキストラで出演。
モーツァルトとブラームスは私の二大苦手作曲家。また,初めての指揮者でどうも馴染んでいなかったこともあったのか,「いつもより動きが少ない」と言われた。それなりにがんばったのだが。まあ,本番は「後ろから音が聞こえた」と言われたので良しとしよう。
全体の感想としては,こなれないまま終わってしまったなぁ,という感じ。モーツアルトもブラームスも弦楽器には負担が大きいから,これが2曲並んでいるのだから仕方ないかもしれない。初めての指揮者,直前練習が雪で中止,など,厳しい条件が重なったのもあるし。
実際のところ,音の処理方法や縦の合わせなどに時間を費やしているうちに,音楽面をどのように作っていくのか,というところまで手を付けられないまま本番だったような印象。なんとなくピンボケな演奏だったような気がする。このへんはアマオケ相手なのだから,早いうちから見通しを示してもよかったのではないか,とも思う。常任の小出氏はこのオケを知り尽くしているから,そのあたりの持って行き方を心得ているのだろうが,客演の指揮者にそこまで要求するのは酷なのかもしれない。
モーツァルトのジュピター。この悲しみの最たるものを表現できたかというと「否」ではないだろうか。特に重要だと思う終楽章コーダの解釈はまったくというほど手つかずだったと思うし,やはり弾くだけで精一杯な感があった。でもせめて演奏者の意識を,楽曲構成をクリアにする方向に導いておくべきではなかっただろうか?そこから先は個々の思いであったとしても。
ブラームスの3番は今回3度目の演奏だったが,いろいろ思うところがあった。情熱的な冒頭主題が最終的に達観した響きに変容する。なんでこういう曲を書いたのに4番はああなのだろう?やはり人はそう簡単に想念を捨て去ることはできない,ということではないだろうか。とはいってもこれは交響曲のみを見ての話で,その他の作品を聴かなければ語れないとも思う。ベートーヴェンは後期の弦楽四重奏曲群で12番から16番に至る完全なる精神の解決を表現したと思うが,これは弦楽四重奏という手法のみに成し得ることで,交響曲では困難なのだろうか。
打ち上げは2次会まで参加。いろいろな話をしたはずだが,記憶欠落部が多い。特に重要なところが欠けている。本当に情けない。おかげでプチ鬱になってしまった・・・。
kaorina。の記事はこちら。
Recent Comments