ショスタコーヴィチ・森の歌,我が祖国に太陽は輝く/ユルロフ/モスクワフィル/イワノフ/ソ連国立響(RUSSIAN DISC RDCD 11048)

なぜかこのCDを手に取ってしまった。体制賛美のキャンペーンソング集みたいな内容だが,そんなことを考えずに聴くのもまた一興。どうせ歌詞は聞き取れないんだし。
これらの曲にはショスタコーヴィチの「職人技」が発揮されていると思う。おそらく彼にとっては全くどうでもいいテーマについて作曲しているにもかかわらず,音楽としての仕上がりは素晴らしいと思う。こんな曲を使って国民を洗脳しようとするのだから,やっぱりソ連というのは恐ろしい国だったのだ。
初めはツァーリの専制から民衆が取り返したはずの「国」だったのが,いつの間にかまた「共産主義体制」とやらに牛耳られる「国」になってしまった。そして従順な盲目の羊を育成するために音楽やそのほかの芸術を利用する。
このCDの曲は,そのための歌詞が付いているから,解釈は制限されてしまう。しかし,歌詞さえなければ解釈は自由だ。だからショスタコーヴィチの音楽は二面性を有するのだ。音楽の意味は直接的ではない。それぞれの聞き手がそれぞれのベースに則って聴くのだから,感じ方は千差万別だが,素直に聴けば道は開けるのだ(たぶん)。
どういう偶然か,昼休みに職場の人と「国」について議論した。日本人は「国」というものの概念が曖昧なので,もう少し「国」というものについて考えた方がいいのではないか,と私は発言した。選挙の問題にも絡んだ話しになったので,個人が考える「国」が正体不明だから,「国」をどうするかということに興味もなく,「よくわからないうちに勝手に選ばれたらしい政治家に好き放題やられている」,という状況になっているのではないかと。
敗戦のトラウマで「国」というものについて考えることをやめてしまった戦後教育が産んだ最大の失敗なのではないかと思う。今からでも,「国」というものについて真剣に考える必要があるのではないだろうか。例えばパレスチナやイスラエルの問題は,「国」というものを考えるためのヒントになるのではないだろうか。少なくとも我が家ではそういったことを話題に挙げていきたいと思った。
国境が海である日本は幸いにも「国」ということを考えなくても今までなんとかやってくることができた。もちろん「愛国心」と混同されている「島国根性」という弊害も生まれた。「国際化」という,一見「国なんか関係ない」とも見える動きが当たり前になってきているが,「国」があってこその「国際化」ではないだろうか。だからこそ「国」というものについての考えをはっきり持っていなければいけないのではないだろうか。
「国」というのは決して「国の役所」という仕組みを指すわけではなく,戦争を招いた「帝国主義」という概念を指すわけでもなく,もっと精神的な,何か遺伝子に組み込まれたようなものなのではないかと思う。特に音楽をやっていると,「ドイツもの」とか「ロシアもの」「フランスもの」なんて言うこともあり,「国」というものが人間の精神に重要な影響を及ぼしていると思う。伊福部氏や芥川氏のような日本人が作曲した曲を聴いたり演奏したりすれば,そのことを感じることができる。
当然私の考えに反論もあったし,だれ一人として同じ考えもなく,まったくまとまらない話であったが,そう簡単に決着がつく話ではないと思う。CDを聴いてここまで考えるのは考え過ぎかもしれないが・・・
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