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October 05, 2004

今日の通勤CD(ショスタコーヴィチ・Sym.15)

ショスタコーヴィチ・交響曲15番/ザンデルリンク/クリーヴランド管(ERATO WPCS-5539)
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市原フィルの合宿でkaorina。が「15番はマーラーでいうところの9番みたいなもの?」と聞かれたらしい。私も同意見だが,kaorina。は「ちょっと違うと思う。」と答えておいたそうだ。確かに体調も悪く死を意識していたであろう時期の作品だが,マーラーみたいに主観的でないイメージだ。もっと客観的に,というか斜に構えて見ているというか,そんな感じがする。いずれにしても70年近い人生を経た作曲家が書いた曲を,それにはるかに及ばない年数しか生きていない私がどうこう言うこと自体滑稽かもしれない。
さて,この曲はいろいろと謎の多い曲とされているが,とにかく他曲の引用が目立つ。引用されている曲は自作だったりもするが,他の作曲家の曲も多く,ショスタコーヴィチ自身は手紙の中でロッシーニ,ワーグナー,ベートーヴェンの引用を明記している。ほかにもショスタコーヴィチ自身が言ったとされる言葉もあり,この引用について評論家などはいろいろと解釈をしては「謎だ」ということになるわけだ。
そこで,俄評論家となった私は,そんなことも頭に置いて聴いてみて,ふと考えた。もしかして,引用作品自体に深い意味はないのではないか?と。ショスタコーヴィチのことだからわざと意味深に引用を並べておいて,「謎」を解こうと躍起になる連中を見てほくそ笑んでいたり,「結局,この世の中には意味なんてないんだよ。」と言っていたりして。まあ,考えすぎだろうが。
人間の意識というものはどのように存在しているのか。物理的には大脳辺縁系の活動が「意識」と呼ばれるものとして認識されているのだろうが,確かなものではない。ということは「意識」によって構築される「意味」だって確かなものではない。「意味」は各個の「意識」がそれぞれ認識しているにすぎず,真理には永遠に到達することができない。つまり「意味」は「謎」のままなのだ。淡々と打たれる最後の打楽器がそれを表している。その部分の私のイメージは「宇宙空間で眼前を通過する粒子」といったところか。うーん,いかにも冷戦時のソ連ぽい。
宗教によってこの世の真理が構築され,信じられていた時代の作曲家と違い,科学というものが真理を探究するようになった時代に生きた作曲家がこんなことを考えても不思議はないのではないか。

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